Person related toゆかりのある人物
谷崎潤一郎
1886-1965
東京の蛎殻町に生まれる。東大国文科在学中第二次「新思潮」に「刺青」を発表。以後の著述生活は半世紀あまり。主な著書に「卍」「春琴抄」「細雪」「鍵」ほか、随筆に「源氏物語」現代語訳などがある。
【下町生まれの、下町育ち】
「その後私自身が、確かに怪しいと思う男に声をかけられたことが二度あった。二度とも水天宮の縁日の日の、やはり昼間、学夜から帰って蛎殻町の本家へ寄り、そこから人形町へ出て、絵双紙屋の清水屋の角を三原堂の方向へ一二丁来た時であった。片側に露店が一杯に並んで狭い道路がごぢゃごぢゃしている混雑の間から、すっと誰かが私の横へやって来て、耳元へ口を寄せて『坊ちゃん』と、ほかの人には聞こえないような小きい猫撫で声で云った・・・」
文豪谷崎潤一郎の69歳の時の作品「幼少時代」の一節です。
潤一郎といえば、「細雪」「春琴抄」など、関西を舞台にした作品が多いため、関西育ちを連想されがちですが、この作品に描かれているように、彼はれっきとした東京っ子、それも、商家が軒を連ねた蛎殻町生まれの下町っ子でした。 東京市日本橋区蛎殻町2丁目14番地、これが彼の生まれ育ったところです。町名はその後変更になり、現在の中央区日本橋人形町1丁目7番10号がそこに該当します。
【霊岸島の幼稚園から阪本小学校へ】
潤一郎の父は倉五郎、母は関といい、彼が誕生した時、両親は祖父久右衛門の経営する「谷崎活版所」に寄寓していました。
祖父は商オにたけた人で、米の仲買店、洋酒店などの事業を広く行っており、潤ー郎はここで大店の坊っちゃんとして育てられました。
幼稚園が珍しかった当時、彼は霊岸島の幼稚園にも通っています。
また、小学校は坂本町にあった阪本小学校に通いました。成績は優秀で、2年に進級の時は、優等生として総代にも選ばれています。
当時の遊び場所としては特に水天宮の境内が気に入ったようです。
しかし、小学校に上がった頃から家運が傾き始めました。潤一郎が4歳の時に父が始めた米の仲買店の商売がうまくいかなくなったのです。一家は南茅場町の小きな家に移り、父は兜町の証券取引所にサラリーマンとして勤めることになリました。
【関東大震災を機に東京を離れる】
その後も家は貧窮の一途をたどるばかりで、父は潤一郎を中学に入れることができず、そのため奉公に出そうと考えていました。しかし、伯父の援助や、担任の教師の熱心な勧告に助けられ、彼は東京府立第一中学校、現在の日比谷高校に進学することができました。
その後、一高を経て、東京帝国大学に進みました。また、その間5年間、京橋区妥女町33番地にあった西洋料理店精養軒の主人北村家に、書生兼家庭教師として住み込んだこともあります。
潤ー郎が東京を離れ、京都に移り住んだのは関東大震災後です。
亡くなったのは、昭和40年、湯河原の自宅でした。
芥川龍之介
1892-1927
小説家。京橋区入船町生まれ。母発狂のため伯父の養子となり、東大を出たあと夏目漱石の門下となり「新思潮」を刊行。「鼻」「羅生門」「杜子春」「蜘蛛の糸」など多くの著書を残した。
【生家は中央区明石町10番】
「僕は生まれてから20歳頃までずつと本所に住んでゐた者である。」と、龍之介は「本所両国」という小品に記していますが、実際は、生まれたのは築地入船町、現在の明石町でした。正確には中央区明石町10番、当時では東京市京橋区入船町8丁目1番地が彼の生誕の地です。明治25年(1892)3月1日、辰年辰月辰刻の生まれにちなみ、龍之介と名付けられました。
彼の出生当時、父新原敏三は牛乳販売会社「耕牧舎」を経営していました。「耕牧舎」は、もともとは実業家渋沢栄一が興したものです。当時、日本の牧畜業が不振なのを憂慮した彼は、明治12年、神奈川県から箱根仙石原に土地の払い下げを受けると、牧場耕牧舎を開き、牛乳敗売に乗り出しました。そこで働いていたのが、龍之介の父でした。
渋沢の信頼を得ていた敏三は、販路を拡大するにあたって、東京方面の販売管理責任者となり、築地入船町に本店を置きました。これが龍之介の生家です。
【父の成功、母の発病】
築地入船町は、当時、外国人居留地となっていて、明治32年に廃止されるまで、日本人は住むことを許されませんでした。しかし、龍之介の父は外国人相手に商売をしていたため、例外とされていたのです。 耕牧舎の事業は順調に発展し、龍之介の生まれた頃は、敏三は業界の長老格になっていました。実業家として名を成した父のことを、龍之介は小品「点鬼簿」に、「小さい成功者の一人」と記しています。
ところが、そんなある日、突然母、ふくが発病しました。龍之介が生まれてまだ7ヵ月しかたっていない時です。10月25日のことでした。「点鬼簿」には、「僕の母は狂人だった」という書きだしで実母のことを綴っています。
【生後七力月で本所の伯父宅へ】
ふくの突然の発病のために、龍之介は生後7ヵ月で、母の実家の芥川家に引さ取られました。場所は本所区小泉町15番地、現在の墨田区両国3丁目22番11号にあたります。 芥川家というのは、代々お数寄屋坊主として殿中に仕えてきた家系です。その芥川家で、ふくの実兄夫婦とふくの姉のふきによって彼は育てられました。
特に、ふきは生涯独身で通し、母親代わりとなって龍之介を世話しました。「伯母がゐなかったら、今日のやうな私が出来たかどうかわかりません。」と、彼は、ふきのことを慈しみながら語っています。 幼稚園は回向院の隣っにあった江東尋常小学校付属幼稚園に通い、小学校は今の両国小学校の前身である、江東尋常小学校に入学しました。 正式に芥川家の養子になったのは彼が12歳の時。
36歳の若さ龍之介が睡眠薬自殺をしたのは昭和2年7月24日早朝、東京田端の自宅ででした。
石川啄木
1886-1912
明治の詩人、歌人。岩手・渋民村の宝徳寺に育つ。のち単身上京し銀座にあった朝日新聞社に校正係として勤める。27歳の若さで亡くなるまで、貧困と病苦にあえぎなが
【記憶すべき日】
啄木は、この就職がよほど嬉しかったようです。というのは、その1年前、彼は妻子を函館に残し小説で身を止てるために単身上京していました。とはいっても、なかなかうまくいかず挫折感を味わうと同時に、経済的にも苦境に立たされていたのです。再起を図る当時の啄木にとっては、就職は何にもまして、励みになったに違いありません。彼の日記にこう記されています。
「二月二十四日水曜 記憶すベき日 夜七時頃、おそくなつたタ飯に不平を起しながら晩餐をくつてゐると朝日の佐藤真一氏から手紙、とる手おそしと開いてみると二十五円外に夜勤一夜一円づ々、都合三十円以上で東朝の校正係に入らぬかとの文面、早速承諾の旨の返事出して、北原へかけつけると、大いに喜んでくれて黒ビールのお祝、十時頃陶然として帰って来た。これで予の東京生活の基礎が出来た!暗き十ヵ月の後の今夜のビールはうまかつた。」
喜びが伝わってくるようです。
【僅か二年、病に倒れる】
彼が、校正係として入った当時の朝日新聞社は、社員もほんのわずかで、編集部12名、政治経済部13名、社会部18名。他に非常勤の小説担当者を加えても、編集局に集まる人数は60名にも足りませんでした。そして編集部12名のうち、校正係は6名。そのなかの1人が啄木でした。
啄木は、職場の風景を詠んだ歌をいくつか残しています。
「京橋の滝山町の 新聞社 灯ともる頃のいそがしきかな」
これは、入社の翌年に出版された歌集「一握の砂」に収められているもので、現在、銀座6丁目の、かつて東京朝日新聞社のあった地に建つ彼の歌碑にも刻まれています。また、ほかにこんな歌もあります。
「春の雪 銀座の裏の三階の煉瓦造に やはらかに降る」
啄木は、校正係とは別に、「朝日歌壇」の選者という、責任ある仕事も任されました。前途に希望はありました。しかし・年後肺結核で倒れ、明45年ついに帰らぬ人となりました。
らも詩歌集「一握の砂」「悲しき玩具」などの創作を残した。
前島密
1835-1919
越後高田藩士の家に生まれ、江戸で医学、英語、航海術などを学び明治政府に出仕。初代郵政省長官。欧米での視察ののち、飛躍脚制度を廃止し切手、郵便局、郵便ポストの設置などの発案をはじめ日本橋の地で近代的郵便制度を創った
【近代郵便制度の曙】
わが国の近代的郵便制度は日本橋から生まれました。
明治の初め、日本橋にあった現在の郵政省の前身である駅逓司と、現在の東京中央郵便局の前身である四日市郵便役所が置かれたのが始まりです。
その近代的郵便制度の導入に大きな貢献をしたのが、前島密です。
密は明治新政府の初代郵政省長官。当時でいうと、駅逓司長官でした。
【手紙一通 二十両に驚き】
近代的郵便制度とそれ以前の制度とでは、すべての面で天と地ほどの差があります。密がこの制度を導入する以前は、手紙の配達は、飛脚に頼っていました。飛脚が手紙を携え、宿場から宿場を駆け抜けて運ぶのです。そのために飛脚にかかる労賃は随分高いものにつきました。
密が長官になった時、まず驚いたのが、そのことです。
ある日、長官室で書類に目を通していたところ、一枚の計算書が出てきました。それは、東京・大阪間で伝達された文書に関する、飛脚への支払い書だったのです。密はそれを見て目を丸くしました。あまりに高い金額だったからです。なんと一便が20両から30両という、途方もない値段でした。
【欧米視察で学ぶ】
そんなとき、彼は欧米での郵便制度の視察を命じられたのです。
当時の明治新政府は、それまでの鎖国による遅れを取り戻そうと、新しいシステムの導入に意欲を燃やしていました。どんどん欧米の新しい制度を取入れ、少しでも早く欧米に追いつこうとやっきになっていたのです。そのために、政府では、たくさんの視察員を欧米に派遣しました。
密もそのうちの1人だったのです。
欧米では、見るものすべてが驚きでした。たとえば、たった1枚切手を貼るだけで、先方に手紙が届くのは、彼にとっては、目を見張るほどびっくりすることでした。
【飛脚時代から郵便切手時代へ】
欧米視察から帰った彼は、さっそくわが国にその制度を取り入れました。
切手、郵便局、郵便箱など、今でこそ、なにひとつ珍しいものはありませんが、当時にとっては何もかも、画期的なものばかりでした。
そして、これらを使って初めて東京・大阪間で郵便業務が行われました。明治4年3月1日のことです。まさに、この日、時代は飛脚時代から郵便切手時代へと、大きく飛躍したのです。
ちなみに、世界で初めて切手を郵便に取り入れたのはイギリスです。
現左、日本橋郵便局の西北の入ロの壁には、「郵便発祥の地」と刻まれた黒大理石の説明板がはめ込まれています。また、西南の裏ロには、密のブロンズの胸像が置かれています。この胸像は郵便事業開始90周年を記念して、昭和37年、日本橋会、前島会、日本橋郵便局協力会らが建てたものです。