Edomae taste

寿司

本来のすしは魚に塩をして、重しを置いて保存しておき、醗酵させた「なれずし」で、現在すし店で食べられるにぎりずしは、「早ずし」ともいって江戸時代に考案されたものです。
保存する手間を省き、醗酵していないタネに酢をからませるという方法が考え出されました。

にぎりずしの始まりは文化年間(1804~17)、両国の華屋(花屋)与兵衛による「与兵衛ずし」です。これが広まって、町ごとに1、2戸のすし店が建ちました。当時の主流は鯛、平目、小鰭、玉子、穴子で鮪もトロより赤身。タネにはそれぞれ味がつけてありました。

明治以降、タネに味をつけずにそのままのせる現在の形となり、全国へ広まりました。「江戸前」が強調され始めたのもこの頃です。
今日では、「江戸前」で獲れる魚は少なくなりましたが、各すし店は全国から質の良い魚を集めるなど、味の維持に苦心しています。

蕎麦

江戸時代初期まではもっぱら備荒食料として扱われており、五穀のうちに加えられていませんでした。
それが普及したのは寛永年間(1624~44)に東大寺へ来た朝鮮の客僧元珍が、つなぎに小麦粉を使うことを教えて、「そば切り」ができてからのこと。
これが、値段が安いことと相まって江戸っ子に受け入れられました。

そして、わずか数10年後の寛文元年(1661)にはそば粉8・小麦粉2という配合から「二八そば」と呼ばれ、12月には夜間に町中で荷売りをしてはいけないという禁令が出されるほどの流行となりました。

当時のツユは濃い辛口であったことから先の3分の1ぐらいをツユにつけて噛まずに飲み込むのが通の食べ方とされていました。
現在の薄いツユでこれをやったのではもの足りなく感じられて当然です。
そば本来の味を楽しむなら「もり」ですが、冷え込む冬の夜中に「かけ」を白い息を吐きながらというのも、また格別です。

大正時代

蒲焼という調理法が確立したのは江戸時代初期で、時代を下るにつれて人気を博し、天保年間(1830~43)には店頭に生け簀を設け、客の好みの鰻を選ばせるという店も多かったといいます。

江戸前の焼き方は頭を落として背開きをしてから白焼きにして、ひと蒸ししてからタレをつけて焼きます。この複雑な作業があの柔らかく、とろりとした深みのある味を生み出すのです。背を開くのは、武士の多い土地柄から、切腹を嫌ったためともいいます。

江戸期は鰻も江戸前で、浜離宮から品川にかけてのものが上物とされました。現在は、大半が養殖ですが、各店ともタレに工夫を擬らして品質の向上に努めています。

昭和・戦前

安土桃山時代にヨーロッパから入ってきたフライ(揚げもの)が日本の味と融合してできたものといわれており、天明年間(1781~88)には江戸の町に登場していたという記録があります。

江戸っ子たちが食べた天ぷらは立ち食いのスナック風のもので、現在の高級なお座敷天ぷらと違って、お使い帰りの小僧さんがちょっとつまめる気軽な食べ物でした。江戸前の海老、烏賊、穴子などに衣をつけて胡麻油で香ばしく揚げた天ぷらは、江戸末期から明治にかけて江戸の町の名物となりました。
これも、東京湾で獲れる豊富で安い魚があったればこそで、今日の高い輸送費のかかった魚では高級品となってしまうのも無理はないといえます。