History

江戸の中央「日本橋」

皇居の東側、東京駅に隣接して広がる中央区の街。
銀座をはじめ日本一の繁華街として知られているこの街々も、天正18年(1590)徳川家康が江戸へ入城した頃はほとんどが葦の生えた潮の浜でした。
まず江戸城と外堀内の整備が行われ、慶長8年(1603)江戸幕府開幕とともに江戸の町割が始まりました。神田山(駿河台)の土を掘りくずして豊島の洲崎が埋め立てられ、浜町の辺りから南新橋に至る隅田川に沿った一帯ができあがっていきました。日本橋、京橋などの町人地は慶長10年頃には完成したようです。
なお、大江戸造成にかかる膨大な労働力は、日本全国の諸大名がお手伝い普請を命ぜられて供出したといいます。

日本橋は平川が東へ延ばされて現日本橋川となったところに架けられた橋で、橋名の由来については『御府内備考』に「この橋、江戸の中央にして、諸国の行程もここより定められるゆえ、日本橋の名ありといふ」と記されています。慶長9年(1604)五街道の制ができた時、日本橋を起点としてすべての道路を発達させようとした幕府の理念が日本橋の名になったのでしよう。一方、京橋が架けられたのもほぼ同じ時期で、この道筋は東海道の出発点、即ち大江戸のメインストリートでした。京橋の欄干には日本橋、新橋と同じく宝珠が飾られ、その後長く江戸の玄関口として役割を果たしました。
さて、五街道の制とともに誕生したのが、宿場、伝馬、助郷などです。全国交通の要となった江戸で伝馬役(伝馬の供給)に携わったのが、大伝馬町、小伝馬町、南伝馬町で佐久間善八・馬込勘解由・小宮善右衛門らが町々の取り締まりと伝馬供給の差配に当たっていました。また、馬喰町には馬市が立ち、伝馬用の馬を供給していました。

このほかにも、中央区には幕府の御用を務めた御用職人、御用商人が多く住み、その職業が町名となった地が多くありました。金座・銀座をはじめとして、刀の鞘を作った鞘町、米商人の町であった本石町、さらには本革屋町、鉄砲町、釘町、紺屋町、桶町、呉服町、鍋町など、いずれも同職人の町でした。こうして町域が次々と拡大され、元和3~4年(1617~18)には元吉原の地域、寛永元年(1624)には八丁堀の東方が埋め立てられ、寛永末年までには現在の中央区域のほとんどが造成されました。

家康が江戸へ下った時、家康に従って摂津から移住した漁民がいました。かれらは江戸近海での自由操業権を与えられていましたが、地元漁民とのトラブルもありました。そこでかれらは幕府に願い出て、隅田川河口の三角洲を埋め立て、島を築造して移住しました。正保元年(1644)のことで、これが佃島の始まりです。

江戸名物「大火」の復興

明暦3年(1657)正月、本妙寺(文京区)から起こった大火(明暦の大火=俗に振袖火事という)は江戸市中の60%を焼き冬くす大惨事となり、死者は10万7000人余り、江戸城の天守閣も焼失し、現在の中央区域は一部を除いてほとんど焼け野原となってしまいました。

幕府は直ちに大規模な復興事業に着手し、寛文年間(1661~72)までには新しい区画による江戸の市域が完成しました。
火除け地としての広小路が設けられたのも、大名屋敷が御三家を除いて城外に移転したのもこの時です。
中央区は、八丁堀、霊岸島とともに武家地が多くなり、日本橋、京橋一帯が、町屋となって広がりました。築地も、信徒であった佃漁民の手で木挽町一帯が造成されて西本願寺がこの地に移り、今日の形ができあがりました。

一方、現在の人形町から富沢町にかけて形成されていた遊郭元吉原は大火を機に浅草へ移りました。いわゆる大江戸八百八町というのはこれ以降のことで、中央区が商業地として抜きん出て発展したのもこれからです。

現百貨店の起こりは江戸

日本有数のデバートや老舗が並ぶ日本橋。
この繁栄のもとは元禄年間前後に築かれました。まず、寛文2年(1662)白木屋(今日の東急)が日本橋に店を出し、続いて延宝年間(1673~80)、のち”現銀掛け値なし”商法で有名になつた三井越後屋(三越)が本町1丁目に開店しました。
大丸の開店も江戸時代です。
一方、大伝馬町の木綿問屋も初めは4軒だけでしたが、貞享3年(1686)問屋の下にいた70軒の木綿仲買がいっせいに問屋に昇格し、以後、新興勢力の商人として大いに力を発揮するようになりました。
この頃、老舗・名店と呼ばれる店が次々に生まれました。


昔は運河と河岸の問屋街

江戸の人口は中期以後100万とも110万ともいわれ、この膨大な人口を支える物質の供給は、大量輸送のできる海上、河川運輸に頼っていました。
海に面した商業地である中央区域には、このための運河や河岸が幾つとなく設けられ、なかでも日本橋川、京橋川、三十間堀、八丁堀の河岸は水運の大動脈ともいえる要路でした。
日本橋川につながる船入り堀には塩河岸・米河岸・小舟河岸・堀留河岸があり、米穀類や塩物・乾物類の問屋倉庫が白壁を見せて並び、京橋川に沿つては薪河岸・竹河岸等の名のとおり薪炭・竹木類を扱う問屋が並んでいました。

また、海産物は室町1丁目から小舟町にかけての日本橋川に沿った一帯に魚市が立って、大いに賑わいました。

このように商業活動が盛んになってくると、商人たちの間で組織がつくられるようになりました。日本橋では元禄7年(1694)大阪から上がってくる諸荷物の荷受け問屋たちが集まって、海難などの積荷の共同損害保障をはかる十組問屋が誕生。文化10年(1813)にはこれが発展、変化し一種の独占団体である株仲間となりました。なお、魚市場では、本町船組、本小田原組、本船町横店組、安針町組の四組問屋がつくられました。

江戸歌舞伎発祥の地

中央区は江戸町人文化発祥の地でもあります。江戸歌舞伎は本区で発祥、成長し、明治以後、本区が新劇の中心地となる素地をつくりました。

江戸歌舞伎は、寛永元年(1624)中村座の猿若勘三郎が中橋南地(日本橋と京橋の中間)で櫓をあげたのに始まります。まもなく、市村座がこれに続き、やがて森田座、山村座が上演を公認されました。

明暦以後、人形浄瑠璃等も含めて芝居見物は堺町、葺屋町、木挽町の3町に限られたので、4座はここに集まり、この3町は魚河岸と並んで最も江戸っ子的な気風を育んだ地となりました。
「役者の氏神」といわれた市川団十郎をはじめ、市川団蔵、岩井半四郎、尾上菊五郎などのスーパースターが絶大な人気を得、文化・文政期には『東海道四谷怪談』で名を残した鶴屋南北(四代目)が出現、また、長唄の杵屋六左衛門、歌舞伎囃子方の田中伝左衛門なども輩出し、まさに江戸歌舞伎は大衆文化の項点に立つようになりました。
山村座が取り潰される原因となった絵島・生島事件(1714)は、この頃すでに歌舞伎が庶民に限らずあらゆる階層の人々を熱狂させるものとなっていたことを示しています。


文化人が集う江戸の中心地

大江戸の中心地・中央区域は、文化人が多く住み、活動したところでもありました。

 早くは三浦按針や河村瑞賢など幕藩体制の確立に貢献した人たちがおり、中後期になると、三代将軍家光の痘瘡を治した名医・岡本玄治、蘭学医・蘭学者の前野良沢、杉田玄白、桂川甫周、儒学者の荻生徂徠、青木昆陽、国学の祖・賀茂真淵、平田篤胤、村田春海など枚挙にいとまがありません。

浮世絵を出版した書店も多く、馬喰町の西村寿堂は東錦絵を多色刷りで出し、また歌麿の画才を見いだしたのは通油町の蔦屋重三郎でした。

小伝馬町の旅籠屋に生まれた石川雅望は狂歌師の宿屋飯盛、杉山杉風は本小田原町の御用魚商人、本町2丁目の薬種小間物店は式亭三馬の店、同じく洒落本作家の山東京伝は銀座1丁目で喫煙具を商う……。

身分や職業もさまざまな人間たちがこの地で自由な文化を創り上げていったのです。

江戸から「東京市」へ

明治になると新政府は中央政治機構の改革とともに町政の改革を急ピッチで進め、明治11年、郡区町村編成法の施行に伴い、東京府内に麹町、日本橋、京橋、芝、麻布など15区が置かれました。
日本橋区、京橋区はここに成立し、これより中央区として合併するまで約70年間、2区の時代が続きます。

 東京市は明治22年に東京府から独立しましたが、これが有名無実。
府知事が市長を兼ね、市庁舎もなく、市の役人もいないという有様でした。
本当の意味での自治制が確立されのは、それから9年後の明治31年で、この時初めて麹町区有楽町2丁目の東京府庁舎内に市役所が開設されました。

関東大震災と東京大空襲

大正12年9月1日に起こった関東大震災は首都全域に激甚な被害をもたらし、中央区においても、日本橋地区は全滅、京橋地区も80%まで焼失するという大惨事となりました。
この結果、日本橋の魚河岸は築地に移転し、復興事業で昭和通りなど新たな道路ができました。また、震災後、松坂屋、松屋、三越などのデパートが銀座にいっせいに進出。
カフェ、バーなども一層賑わって「銀ブラ」という言葉が生まれ、昭和5年以降になるとモガ、モボが洒落たスタイルで街を闊歩する姿が見られるようになりました。ダンスホールや喫茶店が人気を呼んだのもこの頃です。

 しかし、こうした繁栄も戦時色が濃くなるにつれて下火となり、昭和20年の東京大空襲で、東京はビルのコンクリートの破片が重なる瓦礫の街と化したのです。

新生「中央区」の誕生と発展

銀座、日本橋の復興は急ピッチで進められ昭和22年、東京は23区制となり、この時、京橋区と日本橋区の地域を合わせて現在の中央区が誕生しました。

新生中央区が日本の経済、文化の中心として復興したのは講和条約の結ばれた昭和26年頃。
30年代に入ると、ビルラッシュが訪れ、さらに東京オリンピック前後、河川が埋め立てられ、頭上には高速道路、足元には地下鉄の走る新しい都市景観が生まれていきました。

画像提供:中央区広報課(昭和57年(1982)5月撮影)