History of commercial development

江戸時代

【徳川家康の江戸入城と街の造成】

1590年、家康は江戸城に入城。この頃の江戸は小さい宿場町といった様子で、現在の中央区もほとんどが海でした。少しずつ城下を整備していった家康は1603年に幕府を開くと同時に大規模な造成を行って、翌年までには築地などを除く現在の中央区のほとんどが埋め立てられました。同時に東海道と奥州街道を結ぶ、新橋から京橋、日本橋を通って室町3丁目までの幹線道路もでき、商店が続々と建ち始めます。

【商店街の形成】
江戸の人々の胃袋を支える市場が埋め立て後、相次いで開かれました。
日本橋の魚市場に京橋の青物市場です。
また、商店街も北側の本町、大伝馬町、横山町、馬喰町、旅籠町から南の日本橋、京橋、銀座、新橋へと広がっていきました。南側の地域には、噂を聞いて上京してきた関西の商人たちが次々と店を開きました。これをさらに勢いづかせたのが1635年に制定された参勤交代の制でした。大名たちの派手な金遣いによつて、これに拍車がかけられたのです。

【明暦の大火】
ところが、1657年正月、江戸市街の6割を焼き尽くしたという明暦の大火は、現在の中央区の大半を灰にしてしまいました。
しかし、幕府の積極的な復興推進もあって、見事な立ち直りをみせました。
以後、火事は大正期頃まで何十回と起こりますが、その度に復興させてしまう江戸の底力は相当なものだといえましょう。

【元禄期】
大阪商業の発展期といわれるこの時期、江戸においても新興商人の台頭がみられます。その代表格が「現銀掛値なし」の三井越後屋です。それまでの交渉して値段を決めるという方式から、決められた値段で現金取り引きをするという方式に改めたのでした。この商法が当たると、他の呉服店にもこれにならうものが出てきました。東急百貨店の前身である白木屋が発展したのもこの時期のことでした。

【文化・文政期】

江戸文化が項点を極めた一方で、商業面では飲食店が飛躍的に増加しました。
 杉本茂十郎が現れたのもこの時期です。江戸の十組問屋の荷は菱垣廻船で輸送することになっていたのですが、菱垣廻船が老朽化したために大阪からの荷が滞りがちになっていました。十組問屋の頭取となった茂十郎は新造船を菱垣廻船に回すことに成功し、商業界のボス的存在となったのです。
もっとも、その後失脚してしまうのですが。

【幕末の物価高騰と打ち壊し】

開国後の一時期、横浜という近郊に開港場ができたために流通経路が混乱し、米や雑穀などの値段が高騰しました。時代が変わりつつあるという社会心理とも相まって、3日間ほど江戸府内は打ち壊しの波にさらされました。
 中央区内は他の地域ほどの被害はなかったのですが、米の安売り、焚き出しなどをするという例は相当あったようです。

明治時代

【東京という名のおこり】
明治新政府は明治元年の江戸城無血開城後に江戸を京都に対して東の都という意味で「東京」と改称。東京府を置きました。 
同2年には江戸城に天皇を迎えています。

【外人居留地】
維新の後、東京では商業がいまひとつ振るわなくなっていました。政府は、横浜同様に外国人貿易商を招くべく、現在の明石町付近に外国人居留地を開きました。明治元年11月のことです。外国人用宿泊所として、築地ホテル館も近くに建てられました。また、これを目当てに、新島原遊郭もできました。
 しかし、既に横浜に定着してしまっていた貿易商たちは動こうとせず、当初の計画と異なった教会・ミッションスクールなどが建てられ、明治32年の居留地廃止後も同地に残りました。

【銀座煉瓦街】

明治2年、5年とたて続けに火災に見舞われた銀座は、これを機に不燃の煉瓦街とすることになりました。本通りの幅を15間、約27メートルに広げてから、イギリス人ウォートルスの設計に委ねられました。
こうして銀座のハイカラな通りが明治10年頃に完成しましたが、できた当初は湿気がこもり、脚気になる人が出たり、衣類にカピがはえたり、ヤモリ、ムカデが出たりで、住民たちは次々と逃げてしまい、表通りの空家の前では熊相撲や犬踊り、のぞき眼鏡に弓場等の見世物が一時的に繁盛したりもしました。
 15年には表通りを鉄道馬車が走るようになり、アーク灯も点りました。
しかし、裏通りの住民たちが戻ってきたのは20年を過ぎてからのことです。

【銀座新聞社街】
人のいなくなってしまった裏通りへ進出してきたのが新聞社です。商業の中心地・銀座で、経済の中心地・日本橋や京橋にも近いといえば、こんな好立地はありません。「読売新聞」「東京日日新聞」「朝野新聞」「曙新聞」「仮名読新聞」「時事新報」「朝日新聞」「やまと新聞」「国民新聞」「自由新聞」「明教新誌」と続々と集まって一大情報街を形成しました。また、印刷関係業者もこれを追ってやって来ました。

【日本銀行と兜町、蠣殻町】
銀座で商業が華々しい発展を遂げていた頃、日本橋周辺では資本主義経済の基盤が着々と創り上げらていきました。
 明治2年、元大坂町に東京為替会社が設立されましたが失敗に終わり、6年に第一国立銀行ができたのが銀行の先駆けとなりました。13年の時点では東京市内に24行を数え、そのうち20行を日本橋、4行を京橋が占めていました。
日本銀行はそういった時期の15年に開業し、29年に現在の地に移転しました。
東京証券取引所の前身、東京株式取引所は明治11年の開所で、周囲に証券会社も林立して兜町は、「シマ」と呼ばれる独特の町を形成していきました。
また、蛎殻町の米商会所は明治16年に兜町の同所を合併して東京米穀取引所となって、公定相場設定へ一歩踏み出しました。

【勧工場】
多くの商店がひとつの建物の中に商品を並べて販売した、デバートの元祖のような勧工場。でき始めたのが明治10年代の中頃ですが、大半は30年代前半に建てられました。現在の博品館のところにあった帝国博品館も32年に開館しました。通路がスロープになっていて、歩きながら買物をするという方法は一世を風靡しました。
これが一般の商店にも影響を与えて、座売りから立ち売りへと商法が転換していきました。また、ショー・ウインドーも数多く見られるようになりました。

大正時代

【東京駅の開業】

開業は大正3年ですが、日本橋、京橋への足がより便利になりました。また、市内交通の整備も進みました。

【関東大震災】

大正12年9月1日の震災とそれに続く火災は現在の中央区にあたる日本橋区、京橋区のほとんどを瓦礫と灰にしてしまいました。煉瓦でできた銀座の街も持ちこたえることができなかったのです。

昭和・戦前

【新しい街づくり】

震災で何もなくなってしまった東京は、再び一から造り直さなければなりませんでした。しかし、これは東京の近代化という面から見ると、却って良い結果を生んだといえるかもしれません。これを機に思い切った都市革新が断行され、明るくモダンな街づくりが進められました。
  特に顕著だったのはビル建設ラッシュです。デバート、劇場、病院などが日本橋、銀座、丸の内に続々と建てられました。

【銀座通りの繁栄】

銀座には三越・松坂屋・松屋と三つのデバートが建ち並び、復興への先陣を切りました。 震災前から恵比寿ビアホール、カフェ・プランタン、ライオン、資生堂ソーダファウンテン、千疋屋とモダンな店が次々と誕生してカフェー時代が訪れました。
  それが震災後、昭和元年の不況を過ぎた頃から再燃。派手なサービスが売りものの大阪資本カフェーの銀座進出があり、ダンスホールもでき、喫茶店も流行り出して、大カフェー時代となりました。
こういった街の雰囲気に引き寄せられて、生まれたのが、銀ブラ族です。モポ・モガ(モダンボーイ・モダンガール)という言葉も生まれました。しかし、このグット・オールドデイズはいつまでも続いたわけではありませんでした。昭和10年代、戦局が悪化するにしたがってイルミネーションの輝きも徐々に寂しくなっていきました。

【中央卸売市場の開設】

震災後、日本橋にあった魚河岸は芝浦に移って、テントの下で営業していましたが、昭和10年になって築地へと移されました。日本橋魚河岸の移転問題は、かねてより懸案となっていましたが、震災をきっかけに実現したわけです。同時に京橋の青物市場もここへ移され、東京の食料の大部分を一手に引き受けることとなりました。付近には、市場関係者を顧客とした商店街も形成されました。

【戦況悪化と商店街】
昭和6年の満州事変の頃はまずまずの寮気でしたが、同12年の日華事変のあたりから戦時体制に入り始めました。あの繁華をみせた銀座もかげりをみせ始め、15年にダンスホールの廃止、19年にはカフェー・バー・高級料理店も営業廃止となりました。それに代わって雑炊食堂、国民酒場があちらこちらに開かれました。
本格的な統制がとられ始めたのは昭和16年からで、商業構造そのものが配給ルートになってしまいました。統制は繊維・衣類・食料品・家庭用品からマッチ・ちり紙・右けんにまで及びました。
配給の統制だけでなく、物価の統制も行われました。昭和13年に「物品販売取締規則」「暴利取締令」が相次いで出されましたが物価は暴騰し続けたので、14年9月19日にすべての商品と運賃・保険料・賃貸料・加工賃などが価格停止。それでも効果薄とみるや、公定価格を政府が決定しました。これが有名な○公で、終戦時には十数万の商品に設定されていました。
以上のような統制の結果、自由に扱えた商品は文具、小間物雑貨ぐらいになってしまい、商業の機能は完全に崩壊してしまったのです。

昭和・戦後

【敗戦直後の状態】

中央区は戦争による被害が最も大きかった地区のひとつで、日本橋区は約50パーセント、京橋区は約20パーセントが焼失しました。物質的な被害だけでなく戦死、戦傷などによる人的な被害も甚大でした。

【ヤミ市の繁栄】

戦時統制によつて麻痺していた商業機能を戦後いち早く担ったのは露店商たちでした。室町4丁目・八重洲通り・人形町・蛎殻町・月島通り・銀座通り緑地などに露店が立ち並び、主に軍関係者の不正放出品等が売りさばかれました。

【問屋街の復興】

問屋街のなかでも最も復興が早かったのは日本橋横山町・馬喰町でした。商品が店頭に山積みされ、仕入れ客は1日に3万人を超していました。これというのも「横山町・馬喰町問屋連盟」が戦後いち早く組織され、地域ぐるみの復興が図られたためでした。
それに引かれるようにして、他の問屋街の復興していき、日本橋は再び日本の商業中心として返り咲いたのです。

【銀座商店街の復興と変貌】

戦災や疎開によって、敗戦時には戦前にあった建物の34パーセントが残っただけという銀座でしたが、江戸時代からの火事慣れのためか、戦時統制が解除されるにしたがって復興も順調に進んでいきました。
しかし、戦前のような街並みが再現されたわけではありません。
かつては老舗が軒を並べ、ダンスホールやカフェー、デパートが点在するという感じでしたが、戦後は飲食店などが主になり、デパートやそれに類したビルも増えました。戦前からの松屋・松坂屋・三越を追って、小松ストアー・三愛・名鉄メルサ・ニューメルサ、少し離れて阪急・ソニービル・プランタン銀座などが建てられました。
 一時期、こうしたデパートより人気を呼んだのが「みゆき通り」でした。舶来品を扱う店が20数軒かたまってあり、外国人もよく通るということもあって外国めいた雰囲気があったそうで、「流行の流行」をつくる街と呼ばれていました。
銀座の活気がなくなったと、よく言われます。戦前はどの商店も夜遅くまで営業していましたが、現在は、労働基準法の規定によって9時頃までに閉めてしまう店が多く、バー・レストランなどが多い裏通りはともかく、表通りは夜遅くなると開いている店もあまりなく、行き交う人もまばらです。
しかし、日曜の人出を見ると、やはり商店街の王者の地位は揺るぎないものだと感じられます。歩行者天国が最初に実施されたのは昭和45年のことですが、以来、毎土・日曜・祝日には大通りが歩行者に開放され、家族連れを中心に広い通りが人で埋まり、賑わいを見せています。

【各商店街の発展】

銀座以外の商店街で最も発展したのは何といっても八重洲地下街でしょう。
オフィス関係者が、昼休みや帰りがけによく利用しています。
 地元と密着した商店街ならやはり人形町です。戦災をほとんど受けなかったこともあって古い店も随分残っています。月島の商店街のように町の人々に支えられている商店街もそれぞれ独自な発展を遂げています。