Tsukiji Area

隅田川に面した埋立地(築地)
文化の発展に深く関わるエリア

江戸から東京へと移り変わる経済・文化の軌跡を感じることのできる「築地」。江戸時代“八丁堀の旦那”と呼ばれた江戸町奉行所の与力・同心の居住地であった「八丁堀」。「明石町」には明治2年(1869)に外国人居留地が置かれ、西洋文化の窓口として発展しました。

国指定特別名勝・特別史跡の「浜離宮恩賜庭園」は、いまなお江戸時代の大名庭園の特色を残し、風光明媚な都会のオアシスとして、四季を通じて多くの人が訪れます。

隣接する築地市場跡地については、5万人を収容できる多機能型スタジアムやMICE施設の整備計画などが発表され、周辺地域と一帯となった築地ブランドを発信しながら、広域的な交通結節機能を有する整備が進められる予定です。

築地の由来と今
中央区役所の所在地である築地。「築地」の地名は本願寺の移転再建の際に江戸湊を埋め立て“築いた土地”であることに由来しています。築地本願寺のすぐ側にあった築地市場は、平成30年(2018)に豊洲へ移転しましたが、築地場外市場や生鮮市場「築地魚河岸」等、以前と変わらぬ賑わいをみせています。

  • 新富

    明治の初めに花街として栄えた新島原の「新」と、江戸時代からあった大富町の「富」とを合わせて名づけられました。この地に守田座(のちの新富座)が進出し、のちに歌舞伎座ができるまで演劇の中心地でした。

  • 入船

    町の西側に入船川があったので、入船町の名がつき、昭和46年(1971)1月の住居表示実施により入船となりました。明治初期に軍靴製造工場「伊勢勝造靴場」がありましたが、転出後は中小企業の町として今日に至っています。

  • 江戸時代に、各地から荷物を運んできた大型船が荷物の揚げ降ろしをする江戸湊として栄えたことから湊町となったようです。昭和46年(1971)1月の住居表示実施により湊になりました。隅田川を臨む町で、明治中期までは水路輸送の要衝として栄えました。

  • 明石町

    江戸時代に播州(兵庫県)明石の漁師がこの地に移住したためとも、風景が明石浦に似ていたためともいわれています。外国人居留地跡として知られ、聖路加国際病院、教会、洋館が建ち並んでいた異国情緒が垣間見える町です。

  • 築地

    明暦の大火(1657年)以降に埋め立てられたところで、文字どおり海岸に築いた土地ということで築地となりました。ここに西本願寺別院が移って東都の信仰を集めました。かつての幕府の軍艦操練所があったところで、明治に入ってからは海軍関係の諸施設が集中しました。また、震災後、魚河岸がここに移り今日では築地の代名詞となっています。

  • 八丁堀

    江戸城に物資を運んだり、城を攻撃する大型船が近づけないようにするためにつくられた水路の名に由来し、その長さが八町(約872m)であったことから八町(丁)堀と呼ばれました。江戸時代には与力・同心の居宅が集まっていました。

  • 新川

    万治年間(1658~1661年)に開削された掘割を新川と称していたことから、この名をとって町名としたものと考えられます。以前は越前堀、霊岸島、新川の三つに分かれていました。新川は江戸時代から戦前まで酒問屋が集中していて、現在でもその名残をとどめています。

  • 浜離宮庭園

    徳川氏の別邸だったころは浜御殿と呼ばれ、明治3年(1870)宮内省に幕末には石造洋館延遼館を建設。明治3年(1870)宮内省に属した際、浜離宮と改称されました。その後東京都に移管され、昭和41年(1966)7月の住居表示実施の際に町名として成立しました。今日、この庭園は現存する唯一の潮入の庭園として国持別名勝・特別史跡に指定されています。

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